画面の向こうにいるかもしれない「だれか」を忘れない
ちょうど、去年あたりの出来事ですね。
スパムだと誤判定されて、Twitterアカウントが凍結されたことがあったのです。まあそれはもういいんです、Twitterにしかいない繋がりを失うことなく、無事に戻ってこれたのだから。
話は変わりますが、私は自分が書いた記事をどんな理由があっても残しておくようにしているのですけれど、この時だけは恐怖が勝りましたね。今はもう「凍結解除されたよ」の記事しか残ってないのですけれど。「凍結されちゃった、どうしようううう!?」的な記事が見たことないほどブックマークされてしまって。正直な話、怖かったんです。
というわけで、正直あまり思い出したくないのですけれど。今回は去年私がやった失敗について振り返ると共に、炎上的な出来事に対して、どう心を落ち着けるかとどうすれば下手に傷つかずに済むかという自分なりの対処法をまとめたいと思います。
コメントは基本的に見ない
こんなこと言ったら、あれですけど。
記事の下についている「コメントを書く」の部分、見ていません。怖くて。
友好的なコメントもあれば、そうではないコメントもあると思うので。まぁおそらく、コメントしてくださっている人はほぼいないでしょう。今後も特に確認する予定はありません、いたらごめんなさい。
当時の記事のはてなブックマークコメントもほぼ確認していません。勿論怖くて。見たら傷つくと思うので。そういう可能性のある要素からは離れるに限る、と思ってます。当時は信頼できる知り合いに確認してもらって「見なくていいと思う」と言われたので、見てません。強靭な精神持ってないので。
当時は他のことが手につかないくらい気が動転してしまって(Twitter依存症だ)いつもならそういう気持ちを吐き出す場であるはずのTwitterが使えなくて。誰かに相談したいけれど、相談できる人がいない。どうすればいいのかわからないという不安から藁もつかむ思いで記事にしたのですけど。
嫌な記憶は記憶抹消するに限るから、ぼんやりとしか思い出せないけど、そうだな。多分記事を書くことで、すさまじく動転していた自分を客観的に見ることができて少しだけ落ち着けたかなと思ってます。そういう意味では書いてよかったと思うし、交流のあるブロガーさんに励ましていただいた気がするので嬉しかった。
けれどその反面、非難轟々の炎上でも、批判を集めた炎上でもないけれど。心配してくださる方の善意と対処方法と共に、少ない数いたと思われる、喜々として便乗する人たちの恰好の餌のような。今となっては、そういう燃料を投下しちゃったんじゃないかなと思っている。
それは空想島の原点から言えば「らしくない」。
それは望んだ形じゃない、と思うのだ。
SNSでエゴサーチしない
昔は結構していたのですよ、Twitterの検索欄でエゴサーチ。
ブックマークコメントがついたり、はてなブックマークで取り上げられたり。反応を近くで見られるし、それをさらにリツイートして興味持ってくれる人を増やしたくて。おっかなびっくり確認するのが好きだったんだけど。今は全くしないね、怖さがぶり返すから。
おいおい、ビビリすぎだよ。と思う方もいるかもしれない。
そうとも、私はビビリだ。
Twitterっていうのがストック型で発言がある程度は蓄積されるメディアだから。1年経った今でも、凍結関係の記事を見ている人のコメントがもろに見えちゃうのだ。凍結解除の記事は、私のような誤爆で凍結されてしまった人の不安を少しでも和らげることができたらという思いで残しているから。そういう意味で興味を持ってくださるのは嬉しいことだと思う。
うん。
けれど、これからは「これは好きだなぁ」「共感できるなぁ」という気持ちになったり「私もがんばろう」「この人を応援したいな」とか思ってもらえるようにしたい。
本日のまとめ
心に刺さる言葉で、前回「誰かがみとるよ」と書いたのですが、それはきっと「良い意味でも、悪い意味でも」ということなんですよね。
普段、自分の内面に潜るような記事が、私は多めだと思うのですけれど。潜りっぱなしだと、空想島を通してその先にいるかもしれない「だれか」を忘れがちになる。「だれか」に読まれているかもしれないからこそ、下書きで書いた記事を公開する前に立ち止まって「だれか」を意識してみることが大切だなって。
そんなことを改めて思いました。
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