空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

あるがままの自分 と 向き合う

痛い、痛い、痛い。

家入一真さんの「こんな僕でも社長になれた」という本のp.69にこんな言葉があります。

本当に深刻な問題は、他ならぬ自分自身と向き合うことができなくなっていたことだった。 あるがままに悲しみ、あるがままに苦しむことから逃げていた。情熱も感情も、全て 押し殺して押入れにこもり、パソコンに没頭することで一時的に気を紛らわせていた。

嬉しくて笑ったり、悔しくて泣いたり、怒ったり。そういう感情が豊かだった時は、どこにいってしまったのでしょうか。

小中高大という風に、クラスやグループという集団の中で過ごしながら、 成長していく中で、わたしたちは相手を傷づけないために怒りを押さえたり、涙を流すことは恥ずかしいことで自分の弱さを見せることだからと唇を噛んで我慢して、自分の溢れそうになる感情をセーブしようとして、心から笑うことも封印して、 人との距離を取ることで、自分や他人と向き合うことを避け、私は「痛み」から自分を守ってきました。守ることに必死でした。

私の小学生時代のイジメられた経験も、巻き込まれたくないからと友人に無視された経験も、自分の部活動を取り組む姿勢と他の人とのギャップも、自動車教習所に行くふりをして1か月電車に揺られるだけでやり過ごしたことも、人の視線や言葉が気になり過ぎて研究室に入れなくてトイレに引きこもったことも、痛みを知り、痛みから逃げ、自分を守るために行ったどうしようもない逃げの姿勢から来ています。

だから私は「痛み」に弱いし、怒られることにも耐性がありません。怒られることや怒ることは、相手も痛いし自分も痛いことだとわかっていましたし、それを必死になって、避けてきたのだから当然の結果とも言えるでしょう。 けれど、このままではいけないと感じています。

自分の中でもやもやしたもの、しこりのようなものがある時は、一時しのぎにやっているゲームや読書、アニメ鑑賞のような、今までずっと好きで好きで仕方がなくて、しているだけで楽しい気分になれる物たちも色あせていき、つまらなくなってしまうものです。そうして最後には何も感じられなくなってしまうのなんて、絶対に嫌です。

その時、いろんなことから逃げてきた私だけれども、自分からは逃げてはいけないのだなと思いました。自分から逃げ、自分さえを信じられなくなったら、誰が私を肯定するというのでしょう。 わたしにも、あるがままの自分自身と向き合うことが足りない、そう思います。それは私の苦手な痛みを伴うことです、けれど進むためには必要なことだと思います。

「怖いのわかるよ、でもほんの少しだけ覗いてみない?」
「大丈夫、ここにいるよ、わたしはここにいるから」

時には手放しで喜んで、ささいなことで幸せを感じ、感動したり哀しくなったらホロリと泣いて、仲間と時には意見を戦わせる。そんなそこにある幸せを、取り戻したい。そう思います。

新装版 こんな僕でも社長になれた

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