空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

人と共にある『たてもの怪談』を読んで

 誰もいない家に「ただいまー」って言う?

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 私は言う、返事が返ってきたらそれはそれでヤバいけど。暗がりに向かって「ただいま」と自分で言って「おかえり」も自分でいっちゃう。だって返事が本当に帰ってきたら怖いでしょ。ところで夏になると必ずといってもいいほどやっている番組があるでしょう、ほんとにあった怖い話(ほん怖)とか。

 私は科学的解釈のできない、どこか不思議な現象や怪異といったモノに興味があるが、そういう系統のテレビ番組は苦手だし、ホラー映画も絶対に見ない。本物か偽物かに関わらず、映像として見るのは怖いのだ。夢に出てくる。

 だから私が山の怪談、山にまつわる不思議な話であったり、怪談モノに触れる機会はおのずと読書という形に限られてくる。もしくはラジオで聞く百物語とか。実話怪談系の本を読むのが好きで、中でも加門七海さんの本をよく読む。ということで、本日は図書館で借りてきた『たてもの怪談』を読んだ感想とそれを読んで思い出した不思議な体験について語りたいと思う。

人の生活は建築なくして成り立たない

たとえば会社、スーパー、商店、娯楽施設に社寺、病院、駅すらもが建物だ。そこを渡り歩いて帰っても、落ち着くところは一戸建てやらアパート、マンション、最終的には火葬場、墓、と、結局、我々は建物に収まる。

(あとがきより一部抜粋)

 本作『たてもの怪談』は日本古来の呪術、風水、民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどで活躍する加門七海さんの描く怪談実話集だ。中身は短編実話集となっていて、加門七海さんが実際に体験した話が9編入っています。『たてもの怪談』と名のあるとおり、人の生活に寄り添っている建物にまつわる話ですね。引っ越しにまつわる話、建物と建物をつなぐ道の話、幽霊屋敷のような友人の家の話など様々だ。

たてもの怪談

たてもの怪談

 

 それが本物かどうかは私には判断ができないが、だからといって「こんなものあるわけねーし!」とは思わない。世の中には不思議なことがあって、神社に祭られる神がいるように。山にまつわる不思議な話があるように。今日では普段はあまり感じることはないが、確かに私たちと共に人には見えない怪異や神が息づいている、と私は思っている。

 「ほん怖」はあまり見ないのでわからないけれど、目に見えて幽霊や悪霊が悪さをするというたぐいの話はあまりないかな。まあ夜中に怪談本読んでいるとふいに背筋がゾッとして「今日はもう読むのやめよ……」となることがあるけど。怪談実話が苦手な人は読まないほうがいいかもしれない。私は映像として見ることは怖いチキンだけど、文字なら大丈夫な人間なので。

場所の記憶を見るということ

 本の中の一節に、とても興味惹かれる言葉があった。

――このホテルは綺麗な夢を見ている。
――私はホテルの夢の欠片を眺めている。

場所の記憶、と言い換えてもいいのかもしれない。長い時間に堆積した人の気配や出来事が、時折の風に舞い立つごとく、網膜の隅に写り込むのだ。このホテルに限って言うならば、ホテルが愛し、記憶にとどめた思い出が、波のように蘇ってくるのだろう。(本文より一部抜粋)

 私はこれに思い当たるふしが1つだけあったのだ。今年の夏、一人旅と称していつもの温泉旅行に出かけた時の話だ。私は新潟の栃尾又温泉に2泊3日のプチ湯治旅行をしていた。過去にすごくさらっと温泉記事を書いたことがある。

 栃尾又温泉は古くから湯治場としてにぎわう、日本第二位の天然ラジウム泉で、山奥にある三軒の宿が1つの共同浴場を利用しています。特徴は源泉温度が36度と、とてつもなくぬるいこと。夏場にオススメな温泉で、ぬるいお湯にじっくり長く浸かり、上がる時に熱い上がり湯で温まってサッと上がる「長湯」が伝承されてます。常連さんだと本を読みながら2~3時間は入っているらしい。私は栃尾又温泉2回目です。

 源泉湧出地の真上にあるお風呂で36度のラジウム温泉をかけ流していて、じっくりとゆったりと静かに瞑想するかのように目を閉じて入る人が多いので、浴場は私語禁止。湯船につかり、壁側の岩を枕替わりにして目を閉じると、こんこんと湧き出る飲泉可能な温泉と、木々の葉が風で揺れる音、雨の音しか聞こえない。

 温泉を前にはしゃぐ声が聞こえる

 これは私が寝る前に温泉に入って、ふとしたタイミングで内湯で1人になった時の話だ。内湯は源泉が湧き出る場所など、ところどころに電球があり、幻想的な雰囲気を漂わせている。私は源泉がこんこんと湧き出ている近くを陣取って、目を閉じてゆったりと温泉に浸かっていた。

 その日は雨も風もなく、夜となるとガラス張りの向こうがわの景色はほどんど見えない。平日とはいえ三軒の宿が1つの共同浴場を使用しているから、内湯を1人で独占できるタイミングなんてたかがしれている。それはなんとも至福の時間だった。

 私が背を向けている壁の向こう側が脱衣所だ。脱衣所のすぐ傍には引き戸の出入り口があって、そこから数人グループの人の気配が入ってきた。友人同士の温泉旅行なのか時折楽しそうな談笑と浴衣や作務衣を脱ぐような雑音が聞こえる。子ども連れなのか、温泉を前にはしゃぐような声が聞こえる。私は「ああ、このひと時の独り占めタイムの終了か」と目を閉じながら思っていた。

 けれどいつまで経っても、大浴場に入ってこない。女子会や子供連れだとしても、浴衣や作務衣を脱ぐなんて一瞬だ。先に洗面所で化粧を落とすとしてもそう時間のかかるものではない。私はちらりと目を開けて、相変わらず大浴場に自分一人しかいないことを確認した。そして目を閉じる、まだ脱衣所に気配がある。というかたくさんいるような気もした。

湯船が揺れるが誰もいない

 「不思議なこともあるもんだなー」と思いながら、私は気にせず湯船に浸かった。目を閉じなければ、脱衣所の気配は感じない。なぜか五感の1つである目を閉じるとその他が鋭敏になるらしい。まあ風の音とか、建物が軋む音を勘違いした可能性のほうが高いが。

 少しして私がまた目を閉じて湯船に首までつかり、でーんとリラックスしている時、ガラリと脱衣所と大浴場の境である引き戸が開かれて、誰かが入ってきた。その人物はゆっくりと湯船に足をつけて中に入ってきた。目を閉じていたとしても、こんこんと湧き出る温泉が作り出す水面の揺れ方と、人が入ってきた時の水面の揺れ方は違う。そのくらいはなんとなくわかるものだ。……わかるよね?

 大浴場独り占め気分を味わったのだし、今日はもう部屋に帰って寝るだけ。あまり長湯するのも体によくないかと思い、そろそろ上がるかなーと私は目を開けた。大浴場には私以外、誰もいなかった。これには私も少しビビった。だってさっき、絶対人は行ってきたもん。湯船に浸かった気配がしたもん。それなのに誰もいないとはこれ如何に。

本日のまとめ 

 でも、「ま、いっかー」と思った。零感の素人判断なので、なんの根拠もないのだが、悪い感じはしなかった。古くから湯治場として親しまれてきた場所なのだから、人以外が温泉に浸かっていても何ら不思議ではない。そしてそれらも大浴場では私語禁止というのを律儀に守っているのだ。温泉好きなのだ。もしくは長年、愛されてきた湯治場が、その建物が私にその姿を見せてくれたのかもしれない。

 栃尾又温泉の大浴場は霊泉という名前がついている。霊泉、いわゆる霊験あらたかな泉。不思議なほど効果がある泉というわけだ。霊験あらたか、温泉好きの神様でも浸かっていたのだろうか。温泉好きに悪いモノはいないなーと思い、私は私以外がいない大浴場に向かって一礼して「お先に失礼します」と声をかけて大浴場を出た。

 建物や場所が見せた記憶や夢なのかと、そう言われるとなるほどなーと思う部分もある。そしてなにより、温泉好きとして認めてくれたということだろうか。そう思うと、なんだか嬉しくなった。それは夜の大浴場で出会った、アチラ側の霊泉の姿だったのかもしれない。