空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

大切なのは「必死」に見えるかどうかではないけれど

私の中で12月は短期とはいえ派遣社員として働いてみてどうだったか、自分には何が足りなかったことのかを振り返ったり反省したり、来年に向けて次はどうやって働こうか生きて行こうか、自分の考えを改めて整理する期間として位置づけている。そのためのひと休み的なニート期間なのだが、両親から見ると家でだらだらと遊んでいるようにしか見えないようだ。確かに。

ということで本日は、母に言われて「仕事を探すことにもっと必死になって」という言葉の中にある「必死」について考えてみようと思う。この何気ない言葉で自分自身を否定されたような気がして、結構心にグサっときました。

「それなり」でやってきた25年間

ちょうど今年の4月に「本気」とは何かという記事でも一度書いたのだが、


「明日から本気を出す」ことは(たぶん)出来ない - 空想島(6畳半)

私は生まれてこの方、本気になったことが(たぶん)一度もありません。たとえばテストの時がわかりやすい。一応は満点を目指して勉強するわけですが、別に単位を取れる7割だか8割の点数が取れればいいのでそれなりの努力で達成できてしまいます。

こんな感じでそれなりの結果をそれなりの努力で今まで掴んできてしまったので、本気で何かに取り組んだり、がむしゃらに頑張るという経験をしたことがありません。本気になったことがないので、本当の意味での挫折もありません。ようは中途半端なまま、なんとなくやってきてしまったわけですね。やってこれてしまいました。

「必死」になるってどういうこと?

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「次はいつから仕事をするの?」「ちゃんと仕事を探しているの?」と刺すように言われるたび「わかってるよ、探しているよ」と答えるものの、実は現状ではあまり糸口はつかめていない。それをわかっているのか前述した「もっと必死になって」の言葉につながるのである。

私なりに頑張っているつもりでも、周りから見ると全然頑張っているように見えないということだ。確かに家事の手伝いとブログ執筆だけでは、頑張っているように見えないのも仕方がないかもしれない。というか「必死になる」ってどういう状態のことを指すんだろうか。

「必死」になろうとするとお先真っ暗になる

私の中で「必死」というと、息があがってもゴールに向かって走って走って走りまくって、苦しくても涙が出ても鼻水が出ても転びそうになっても、下を向かずに前へ前へってがむしゃらに進もうとするようなイメージがある。求職活動でいうと次の仕事を捜し求めてハローワークに通い、気になる求人に片っ端から応募して面接に出かけたりするような感じ。手帳のカレンダーにびっしり予定を入れて、あっちこっちを走り回るような。もしかしてこういう風になれない私がおかしいのだろうか、甘えているんだろうか。

私がこんな感じで仕事探しに必死になったとしよう。お金には常に余裕は存在しないが、言葉通り死に物狂いになると心の余裕も消え去る。そうなると、まず自分の現状を悲観することが止められなくなることが考えられる。他人と比較して自分の駄目さ加減を自分で罵り出すだろう。

この負のループに突入するともともとない自分に対する自信がさらにすり減り、もう何もかもが嫌だ、何もしたくないという暴力のような感情に晒されることが目に浮かぶ。必死になるもしくは無理に必死になろうとすると、人生がお先真っ暗に思えてしまうのだ。こうなると毎日生きていくことそれ自体が苦しくなってしまう。だから逆境をバネに成長出来る人は尊敬する。

「自信」も「頑張り」も消費されていく

また周りの視線や周りと比べて劣っている、もしくは遅れていることばかり気になってしまい、とりあえず形だけでもどこかの枠にはまらなければと考えはじめる可能性もある。視野が狭くなるとズボンと大きな落とし穴に落ちるかもしれないし、先に後悔することとなった新卒時の就職活動の再来である。

とはいえ自分の人生なのだから、ここぞというときには決断することも大切だ。その時に目先のことに囚われて後悔しないようにしたい。「必死」になってそれが焦りを生み、それが長期間に渡って続くと自信も頑張りも消費していってしまう。だからこそ金銭的に不安定で職も不安定でいつ崩れるかわからない所に立っていたとしても、心の余裕だけは失いたくないのです。そう思うのはわがままなのかなぁ。

誰でも必死になることが出来る最終兵器的感情がある

それは恐怖や危機感から来る「必死」である。
私にとってはこちらの「必死」のほうがわかりやすい。つまりは生活費としてのお金が減ってピンチになりつつある時がこれに等しい。生活の死に直結しているというだけあって、一瞬で強制的に必死になることができる。銀行口座にある残高がヤバい→この先、生きていけない→仕事探さないと!という流れで。まぁ本当はそうなる前にどうにかしろよっていうことですけど。

「必死」になれないわたしへ

派遣やアルバイトで一時的にお金を稼げたとしても長続きせず、新しい仕事を探して奔走するも貯金が尽きてしまう。長く働いて欲しいといわれたはずなのに辞めさせられる。または資格を持っていても経験がなければ雇ってもらえないという負のループに突入してしまい、どんどん自分の首を絞めてしまう。そういう人はたぶんたくさんいるのだろう。私がそうならないという保証はどこにもない。

今までそれなりに乗り越えてこられたのは、両親が健在で実家に住んでいられるからだ。これで毎日を乗り切る家がなかったら、今の私はないだろう。それを忘れてはいけない。けれど無理に「必死」になって心と体を消耗するくらいなら、「必死」になれないなりにどうにかするしかない。こんな私でも生きていけるのだと証明するしかない。

本日のまとめ

大切なのは「必死」に見えるかどうかではない。けれど忘れてはいけないことがある。そして後悔しない選択や決断をするために自分の人生に真剣になることだ。考えることも大切だけど、道を模索しながらでもいいから少しずつ進むことだ。

私は慎重すぎるほど慎重気質で、自分の考えを整理しながら進むということが苦手だ。わからないことはすべて明らかにした上で安全を第一に考えてしまいがちだ。でもすべてが明らかになることなんて、ぶっちゃけ一生ないと思うから、恐る恐るでもいいからやっぱり一歩ずつ進むしかないと思う。

ニートになって2週間が経ったけれど、いつまでもそうしていることは出来ない。わかっている、もちろん今の状態のままいるつもりもない。そりゃあまりガツガツ働きたいわけではないが、別に働くのが嫌だと考えているわけでもない。

人生そんなに甘くねぇと言われてしまうかもしれないが、私の最終目標は正社員一筋ではなく、もうこの際、正社員でなくてもいいからいくつかの収入源を持って生きていくことだ。でもまずは1年以上の長期にわたって働ける場所を見つけたいと思っている。やっぱり収入が不安定っていうのはお財布事情的につらいものがあるし、私は正社員でも派遣社員であっても4ヶ月以上長く働いたことがないので、働くことに慣れる・経験を積むことが必要だと思うからです。

必死に見えなくてもいいから1月末から新しい仕事を見つける、来年こそは長期間働ける場所を見つけるという目標に向かって私なりにアクションを起こしていきます。必要以上に自分を追い詰めないようにしながら、今この時を大切にしながら。それが私の「必死」なのかもしれないと思いながら。