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空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

人生がもしRPGだったら、どんなにいいだろう

日記 雑談

人生がゲームだと思えたら、どんなにいいだろうと考えることがある。

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現実世界に存在する私を離れ、ネットの世界やゲームの世界でもう1人の自分として生きる。それはこうなりたいという理想の自分だったり、性別も異なる別人格かもしれないし、もしかすると人間ではなくてゲームプレイヤーに立ちふさがるラスボスかもしれない。

もう1人の自分になるまたは成りきる(演じる)ことで、現実世界の私では足踏みしてしまうようなハードルを飛び越えることが出来るんじゃないかと空想する。冒険の旅に出て、モンスターを倒したり依頼をクリアしてアイテムやお金を集めつつ、パーティーを組むための仲間を探し、その世界における自分の役割を見い出していく。そう考えると、人生はまるでゲームのように思えてくる。

本日はこんな風に考えるきっかけとなったアニメ作品を紹介しつつ、ゲームの世界に生きるもう1人の自分、人生がもしRPGのようなゲームだったらどうだろうかということについて考えてみたい。

 人生がもしRPGだったら、職業平等選択システムはあるか?

実は私がプレイしたことのあるRPGゲームはとても少なくてペルソナ3とサモンナイトシリーズくらいしかない。そんな偏ったゲーム歴だから的を得ているとはいえないかもしれないけれど、登場する人物にはだいたい役職、もしくは職業みたいなものが存在するように思う。「剣士」とか「魔法使い」とかそういう感じの奴だ。

初めから職業が存在し、それを道中で手に入れる武器でスキル強化していく場合もあれば。サモンナイトシリーズのように、モンスターを倒したりイベントをクリアして経験値を稼いだりして、「召喚師タイプ」や「戦士タイプ」のような自分に合うモノを選択していく場合もある。

ここで言いたいのは、ゲームの世界であればなんらかの役職を得られるということだ。経験値を稼ぐための場所、イベント、依頼も限られていて、コミットする時間さえあれば自らをレベルアップさせ、お金を稼いでは道具をそろえていき、その世界における役割を誰でも1つは確立していける。初期ステータスにおける向き不向きだったり、憧れの職業と実際のギャップはあるかもしれないが、誰でも現実の私ではないもう1人の自分になれる。それぞれに輝ける舞台が用意されている。

人生にはゲームのような安全親切設計はない

でもこれはゲームの世界だから出来ることであって、私の人生は木の棒すら持ってない、スライムにも勝てなさそうな初期装備の状態から何を装備すればいいのか、どこに行けばいいのかを見つける所から始まる。どこにもいけない可能性もある。

多くのゲームには困った時のヘルプとして攻略Wikiみたいなものがあって、こういう初期ステータスの場合、こういう風に育てていけばいいよというデータであったり、近くの街の情報、持っておいた方がいいアイテム、効率のよい経験値の稼ぎ方、敵モンスターの弱点や最低限必要のレベルと必勝方法、仲間を集めて助け合うことができる等、ゲームをクリアするための様々なサービスが至れり尽くせりであることが多い。それを事前に確認するか否かは人によるのだけれど。

人生でもそういうお助けキャラやサービスはあるのかもしれない。人生経験を積むと自分自身をレベルアップできるし、お金も溜まるし、人脈も増える。経験値やレベルによって初めて解放される情報というのもあるだろう。それでも人生をクリアするためにこれさえやっておけば安泰というものはない。

とりあえずここまでセーブしておこうというセーブポイントもないし、選択肢を間違えたからってコンティニューすることも出来ない。人生がもしRPGだったら、私は一体どんな職業を持つことができるだろう。ワクワク、なんて初めは思っていたのだが、夢も希望もなくなってきてしまった。

そう、一度始まってしまえば死ぬまで止まることはない。やめられない、とまらない、かっぱえびせん。ではなく、辞めたくても辞められないのが人生だ。

ソードアート・オンラインから見るもう1人の自分

ゲームだが遊びではない。ゲームの世界でHPがゼロになると現実の世界の自分も死ぬというコンティニュー出来ないデスゲームで、一番初めに思い出されるのはソードアート・オンライン(アインクラッド編)だ。

ソードアート・オンライン〈1〉アインクラッド (電撃文庫)

ソードアート・オンラインという世界は現実世界とリンクしている部分が多い。アインクラッド編はゲーム開始直後に自分の本当の姿を投影したキャラにさせられてしまったが、その他は基本的にもう1人の自分になることが可能だ。剣士だったり、魔法使いであったり、色んな職業になることが出来る。

ソードアート・オンラインと人生は非常によく似ていると思う。ソードアート・オンラインは一歩間違えば死と隣り合わせなので、私には一歩も始まりの街から出たくないでござるレベルのルナティックモードなのだが。けれど、だからこそ限られた世界の中で人は懸命に生きているように見えた。

それをどこか羨ましいと思ってしまう私がいる。思うに私はきっともう1人の自分、なりたい自分になりたいのだ。等身大の私では出来ないことをもう1人の自分に託すように。

現実世界の自分と仮想世界の自分はリンクしている

そう考えてみると、ゲームの世界というのは現実では実現が難しいことにチャレンジできる場所ともいえるかもしれない。ゲームに限らず、漫画やアニメ、映画や本における物語の世界を、まるで自分のモノのように追体験(?)することで、異なる世界で生きる自分が経験値として得たものを、現実の自分に還元することが出来るかもしれない場所でもある。詩乃が仮想世界のシノンが強くなれば、現実世界の自分も強くなれるのではと思ったように。

ゲームはゲームで、現実は現実。両者はまったく違うものかもしれない。けれどその世界を生きていた人にとって、その時間はかけがえのないものでゲームの中で出会った人や言葉が現実世界で生きる上でのパワーになることもある。仮想世界のシノンが現実世界の詩乃を引っ張ってくれたように。もう1人の自分が味方になってくれる、もう1人の自分が自分になるということは心強いのだ。

現実世界で生きる自分も、ゲームの世界で生きていたもう1人の自分も、すべてひっくるめて自分であると理解し今の人生を生きて行こうとしている。だから私はソードアート・オンラインが好きなのだという話は蛇足かもしれないが。言いたいから言っちゃおう。

本日のまとめ

人生は一度しかない。まるでコンテニューのできないゲームのようだ。ソードアート・オンラインのようにやたらめったら死ぬことはないのだから、一度しか人生、悔いが残らないようにしたいと思う。

けれど、これをやったら取り返しのつかない失敗になって奈落の底に落ちてしまうのでは?お金がなくなって毎日の生活を滞りなく送ることができなくなってしまうのでは?まだ失敗していないにも関わらず、なるかもしれないという可能性の恐怖を前にすると私はどうも足がすくんでしまう。人生が一度しかないからこそ、動けなくなってしまうという矛盾。慎重すぎる性格も考えものだ。

「もう1度生きることが出来るなら何になりたいですか?」なんて質問があるけれど、Twitterで「もう人間はやりたくないな」と呟いたら、リツイートされまくってびっくりしたことがある。でも今生きている人生の他にもう一度チャンスがありますと言われたら、どうだろう。

そうしたら可能性の恐怖という鎖にすぐがんじがらめになってしまう私の足は、少しは軽くステップを踏めるようになるのだろうか。まぁ「かもしれない」論を繰り返しても意味はないし、今の私の人生はここだけだ。ここにあるただ1つだけなのだ。

けれど、たとえそうだとしても、一歩踏み出す勇気が出るなら。もう1人の自分と現実の私を繋げるように生きることができるなら。いっそ人生はゲームなんだと思いたいと思うのは、私だけなのだろうか。