空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

「痛みを忘れない」ための、Twitterとの付き合い方

見たいものを見て、見たくないものは避けられる

普段わたしたちは、膨大な情報の海から自分の求めるモノを見つけるために、取捨選択をしています。

例えば、自分の求めるモノを見つけ出すためのキーワードを入力するGoogleもそうですし、見たい番組なんか1つもないけれど、暇つぶしになる番組を探して、新聞のテレビ欄の中から1つの番組を選び出すことも、そうでしょう。

そして、自分の中に入れる情報をフォロー、リムーブ、あるいはブロックのような形で取捨選択するTwitterも同様だと思います。けれど私は、Twitterを見るたびに、普段は意識していない「見たいものを見て、見たくないものは避けられる」自分の世界を意識します。

私のTwitter利用法

昔は、技術的な情報収集のためであったり、ユーザー同士の交流をしたり、ついのべと呼ばれる140文字小説を書きなぐるような使い方をしていたのですが、最近はもっぱら「他人から見たらどうでもいい、誰かに話すほどではない独り言やその時思ったことや感じたことを吐き出す場所」として使っています。

あとは趣味が合いそうな人やリアルな知り合いの繋がりもありますが、今日、お話したいのは、「出来るだけ見たくないし、聞きたくないモノや言葉を、わざと自分のタイムライン上に流す」という使い方についてです。

痛みの後ろにある気持ちを忘れないために

ちょっと話が飛躍するかもしれませんが、人が抱く「怒り」という感情の後ろに、哀しさや寂しさといった本当に欲している気持ちが隠れているそうです。これと同じで、何かの出来事から逃げてしまいたいと思ったり、苦しいと感じるということは、どんな形であれ、それを本当は求めているからこその感情なのではないかと、私は思います。

今の自分にはない理想の姿を見せつけられたり、今の自分を否定させられるような気分になったり、大切なことだと分かっていても受け入れられなかったり、認めてしまうことが怖かったりして、出来ることなら、見て見ぬふりをするだけでなくて、消してしまいたいと思うからこそ、逃げたくなったり、痛かったり、つらいと感じるのかもしれません。

今でも「リムーブさえしてしまえば、この痛みから(一時的にでも)開放される」とTwitterを見るたびに、思います。けれど、自ら耳をふさぎ、目を閉じて、自分にとって都合のよい世界に逃げて、隠してしまうと、その時私自身が何を感じていたのか、本当は何が欲しいと思っていたのかすら、わからなくなってしまうような気がしています。

だから、定期的に自分のことを確認し、自覚するためにも、「痛みを忘れないための痛み」を自分の中に取り込むことが必要なのだと思っています。そしてそのための場所として、常にTLに情報が流れてくるTwitterは最適だと思うのです。