空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

「どこかへ行きたい」の「どこか」とは、どこか?

「ここではない、どこかへ行きたい」

わたしは、この言葉に、誰もわたしのことを知らない場所に行けば、そこからまた何かをやり直せるのではないかと、そう思いたくなる、根拠のない衝動を感じます。そう、思ったことはありませんか。わたしは、結構あります。

例えば、何か辛いことがあった時、誰かの心ない言葉に傷ついた時、これから起こるであろう困難を予見した時や、逃げ出したくて仕方がなくなった時などです。この場合、その「どこか」には憂鬱な日常を忘れて、考えなくてすむモノであることが前提にあります。けれど、一時的に忘れられるだけで、本当に忘れ去ることが出来るわけではありません。

足枷と定期券

例えば、大学時代、本来行かなくてはいけない所に行きたくなくてなんとなく逃げてしまっていた時、私はよく電車に揺られていました。寝過ごしたわけではなく、意図的に降りなければならない駅を通り過ぎ、そしてこのまま、遠くまで行ってしまいたいと思ったものです。けれど、実際にはどこかで電車を降りて、引き返さなければいけません。

引き返さなければいけない理由は、ただひとつ。そこが、定期券の特定区間外だからです。電車のある限り、時間のある限り、電車を乗り換え続ければ、どこまでだっていけるでしょう。けれど実際に改札を出るためには、遠くに行けば行くほどお金がかかります。では、お金をPASUMOやSuicaにチャージすればいいだろうと言うことも出来ますが、逃げた所で何か問題が解決したわけでもないので、いつも帰らざる、戻らざるをえませんでした。

わたしたちは、本当は選んでいる

「どこかへ行きたいと思っても、どこにもいけない」
「自由に動ける範囲は、せいぜい定期券の範囲内だけなんだ」

わたしたちの足には、足枷がはめられていて、自由にふらふらと、どこかに消えてしまわないようにするために、地面には釘が打ちこまれていて、動ける範囲は鎖の長さで決まっている。そう思うたび、ジャラリと足元で鎖鳴る音と、枷の重さと、息苦しさを感じたものです。

けれど、それは違うのだと思います。本当は気がついていながら、目をそらしていただけです。毎日過ごしている日常と「どこか」は、まったく別の物で、切り離されているように感じるかもしれませんが、ゆるやかに繋がっています。だから、わたしたちは、非日常である旅行の中で、小さな癒しと幸せを感じ、非日常であるはずの旅行中でも、思い出したくない日常を思い出します。自分から逃げることが出来ないように、日常からも逃げることはできません。それこそ、命を絶たない限りは。

そう考えると、本当は、どこにもいけない、わけではないと思います。その時は「どこかへ行く」ことよりも「そこへ行かない」ことを選んだだけです。

「どこかへ行きたい」と言いますが、その「どこか」は、本当はどこでもありません。そこに具体的な場所の存在がありません。だからたとえ行きたいと思ったとしても行けないし、行くための交通手段も、金額も、どうやって生きて行くのかも、何もかもわかりません。その時、引き返したというなら、引き返すことを選んだというだけの話です。本当に行きたい場所が決まった時に、そこへ行くことが出来れば、それでいいと思うのです。