空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

左利きは ステータスである

「お姉ちゃんが右に座っていると、箸がぶつかって邪魔」

食事の際に、うっかり左利きである私が右側に座り、右利きである妹が左側に座ると、よくそう言われます。あまり良い気分ではありませんが、それでも私は、左利きであることはステータスである、と考えています。

しかし、昔は違いました。もしかすると、今でも左利きに対する偏見はあるかもしれませんが、日本を始めとする世界の多くの国で、小さな頃に両親や周囲の人によって、右利きに矯正させることが一般的でした。なぜでしょうか?

様々な理由が考えられますが、主に以下の3つが挙げられます。

1つ目は、左手には不浄な手であるからです。
かつてインドやイスラム諸国では、トイレットペーパーというものがなかった時代、排泄後は左手で汚れを落とすことが当たり前でした。そのため、食事の際に左手でつかんで食べること、左手を使うことや出すことは無礼とされてきました。

2つ目は、圧倒的に世の中が右利き社会であることです。
人間工学的なデザインも右利きを前提に設計されているものが多く、生活上で不便だったり、逆に危険であることも多いようです。私自身は左利きであることで危険を感じたことはありませんが、ハサミ、習字、そろばん等で、右利きに矯正しないかと言われたことがあります。

3つ目は、左利き=身体障害と考える人がいたからです。
詳細はよくわからないのですが、世の中の8割強が右利きだったわけですから、異なる物を見るとそれを恐怖したり、差別したり、根絶しようとする部分もあったのかもしれません。

私の両親も右利きに矯正させるべきが悩んだそうですが、私は今も左利きです。それは、私が世の中の8割が右利きであるという中で左利きであることに、ものすごく価値を感じていて、右利きに矯正することを断ったからです。希少価値のある左利きを右利きに矯正するなんて、とんでもないと考えていました。元々、使いやすさに無頓着だったということもあり、正直、生活しにくいとは感じたことはありませんでした。

ちなみに、左利きでよかったと感じる理由が4つあります。

1つ目は、左利きという名の仲間ができることです。
私が、大学に入学した際に開かれた立食パーティーで初めて仲良くなったのは、左利きの子でした。左利きは絶対数が少ないということもあり、同じ左利きに親近感を覚えることが多いのか、左利きという共通の話題があることで、すぐに仲良くなれます。

2つ目は、会話のきっかけになります。
中々、初対面の人に話しかけづらいという時に、左利きであることは使えます。右利きの人には珍しいという意味で「左利きなんだね」と言われることがありますし、左利き仲間を作る際には「君も左利きなんだね、一緒だ」という風に言えます。右利きである人がほとんどなので「右利きなんだね」と言われることはないと思います。

3つ目は、作文を書く時に、手が汚れないことです。
横書きで左から右に文字を書く場合は、書いた文字に左手が接触するため、手が汚れてしまいます。しかし原稿用紙など、縦書きをする場合のみ手が汚れません。この時だけは、よく羨ましがられました。

4つ目は、スポーツでサウスポーは有利であることです。
特に野球や卓球などのように、一対一で対戦するスポーツの場合は、左利きは有利と言われます。それは単に、左利きの絶対数が少ないので、右利きの人は左利きと対戦する機会が少なく、ボールの回転やフォームなどに慣れていないからです。左利きの場合は逆方向、逆回転になるので、卓球などではいろんなサービスさえマスターすれば、慣れられない間に大量得点が可能です。

だからといって、左利きを右利きに矯正してはいけないと言いたいわけではありません。左利きを右利きに矯正してよかった人もいると思いますし、昔は今ほど物がそろっていなかったので、自分を物側に合わせる必要があったのだと思います。

多くの人とは異なるということは、圧倒的多数の世界から考えると、時に孤独になったり、嫌がられたり、下に見られたり、不便を感じることもあるかもしれません。しかし、それだけで価値のあるものだと思います。圧倒的多数の人が「右利き」であるからと言って、「左利き」はいけないものではないように、「左利き」であることはステータスであり、「皆と異なる」ということもステータスだと思うのです。