空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

ポストイット と 良かったこと探し

批判しない、否定しないことは難しい。

なぜいきなりこのようなことを言い出したかというと、最近、家の中が窮屈だと感じたからです。昔は、今日あったことや楽しかったことを、家族団欒の時間に報告してたりすることがあったのですが、最近は、今日あったことを誰か他の人に話すこと自体がなくなり、代わりといっては何ですが仕事の不安、嫌だったこと等の愚痴を言うことが多くなってしまいました。よく人の悪い所を探すのではなく、よい所を探すようにすると良いという話を聞きますが、批判したり、否定することに慣れていると、これが中々難しいことを知りました。

なぜそのような習慣が出来てしまったのでしょうか。1つは家族団欒である食事の仕方にあります。私の家では朝食、昼食、夕食を食べる時は、大体テレビがついています。そしてその時の話題といえば、天気予報を見ている時は、お天気おねえさんの服装チェック、政治ニュース、バラエティーを見ている時は注目されている人や出ている芸能人の言動について等、どうしても提供される話題に対する話が多くなってしまいます。家族1人1人の生の話をする場を作るためには、思い切ってテレビの電源を切るか、コンセントを抜く必要があるのではないかと思います。

2つ目は、批判や否定することに慣れてしまっていることが挙げられます。お天気おねえさんの服装チェックの時は、リボンが付きすぎているとか、胸を強調した服装ばかり着るよねとか、上下どちらも白い服で膨張色はないよねというように、批判や比較をすることから入ってしまう癖がついています。批判することや否定することは簡単です。しかしそれに慣れてしまうと、人の嫌な所にばかり目についたり、今日あった嫌なこと、仕事に対する不満や愚痴ばかりが思いつき、家族団欒のためにあるはずの時間をその話題で費やしてしまうことにもなりかねません。実際、私の家ではそうでした。

嫌なことがあったり、愚痴は誰かに聞いて貰いたくなるものです。それは仕方がないことですし、誰かに話すことで気持ちが楽になることもあると思います。しかし、ネガティブな方面に働くベクトルが悪循環を生み出してしまうこともあります。その悪循環が、家の中を息苦しくし、窮屈さを生み出しているのだと思います。私達が所属している社会の1つである家庭が、息苦しいというのは寂しいことです。今までは、家族であればそれでいい。家族4人で御飯を食べていればそれでいいと思っていたのですが、家族だからといって何もせずにうまく行くことはないのだと、改めて知りました。

そこで、新しい試みを始めてみました。それがポストイットを使った、良かったこと共有習慣です。1日1回、良かったことや嬉しかったことをポストイットに描き、家族全員が見るホワイトボードに貼ることで良かったことや嬉しかったことを共有しようという試みです。コメントの下には、各自感想を書くことができるようにしました。ただし、感想を書くことは自由です。書かなくても書いてもどちらでもOKです。誰かが見ているとわかると継続するモチベーションになるかもしれませんし、ただ字にすることで頭の中が整理されることもあるでしょう。これで物事に対する良い面、嬉しい面を探すことを習慣づけようという作戦です。ルールは特にありませんが、人の書いた内容を否定しないことが大切だと思います。これが習慣となれば、「今日はあのポストイットを書いていないから、今日あったことでよかったことは何だろう」と自然に考えることができるようになるのではと思っています。言いだしっぺの私が、毎日書くようにすると母が書いてくれるようになりました。まだ妹と父が書いてくれないのですが、さりげなく促してみようと思っています。

悪いことが目につきやすくなると、悪いことが起きやすくなるのと同じように、ささいなことでもいいから、物事に対する良い面を見つけることが出来るというのは、良いことが起こる可能性や強運を、引きつけることにも繋がると信じています。

今日、貴方のよかったことは、何ですか?