空想島(6畳半)

空想をすることが、生きる糧となり地となり肉となり

働きたくない わけじゃない

自分の思いは、見えにくい。

そのことを痛感したのは、私が両親に「働きたくない」と告げた日のことでした。嫌々ながら会社に行き、胸の痛みに耐えながら働いていた時は、「働きたくない」「早く帰りたい」と毎日のように思っていたし、感じていたはずなのに。「働きたくない」と口に出して人に伝えた時になって始めて、心が「本当は働きたいのだ」と言ったのです。その時の気持ちは今も忘れられません。

「働かなくて生きていけるの!?」「自分が何を言っているのかわかってるの!」と両親に責められる中で、「本当は、本当は働きたいんだよ・・・」という思いが胸の中から溢れてくるのに、どうすればいいのかわかりませんでした。今もまだわかりません。けれど、今のままでは「働く」にまでたどり着けないということだけがわかっている、酸素のない部屋に閉じ込められたかのように感じていました。

別段、いまさら辞めた会社に戻って働きたいというわけではありません。私は、自分で辞めるという道を選んだことを後悔しているわけではありません。むしろ、辞めてよかったのだと思います。わたしは、「働きたくない」わけでも「めんどくさい」わけでもありませんでした。「働きたいと思うからこそ辞めました」が、もしかすると、「働きたくない」より私の気持ちに近いのではないかと思います。

ただこの「働きたい」は、小中高大と進み、まるで一本のレールの上を走るような会社員というくくりの中にあるのか、その外にあるものなのかはまだわかりません。それだけではないのではという気がしています。では、これからどうするのかというのは、今は道を模索中というところでして、具体的に何かをしているわけではありません。「何をして働きたいのか」を見つけるために、興味のアンテナを広く持ち、視野を広げるための挑戦をして、自分の心が動くものを探し、心の声を聞くことをやろうと思っています。勝ち組になりたいわけではありません、そんなものに興味はありません。働くというには、まだ心もとないかもしれません。何かをしてその延長線に仕事や働くことがあるような、自分事として考えられる事、自分がそこにあるような物を見つけたいと思っています。そのための一歩として、ふるさとワークステイを考えています。

親には「見つけられたらいいのにね・・・」なんて、半ばやる前から諦めが入ったような言葉を貰いますが、「見つける、見つけるしかない、そのために私は辞めたんだから」というのが正直な所です。

自分の思いは、いろんな感情の波に姿を隠して、ふとした拍子に顔を出すものです。悩んだ時や考えてもわからない時は、声に出してみましょう。もしかしたら、天邪鬼な彼らがひょっこり顔を出すかもしれませんよ。